ダークファンタジー「叛逆の導 - THE SIGIL REBELLION - 」小説サイト

沈黙の契約

霧はいつのまにか、空と地の境を覆い尽くしていた。
湖は、声を失ったように静かだった。
波ひとつ立たぬ水面は、まるで巨大な鏡のように空を映し、そこに浮かぶ月影が、まるで別の世界への扉のように見えた。

スヴァイン湖——
古き伝承が語る、死者の記憶を宿すという水域。
リヴァは、足元に広がるその静けさに、言いようのない感覚を覚えていた。
ただ静かで、美しい。なのに、どこか、哀しい。
風もなく、木々も眠り、まるで世界が息を潜めているようだった。

「ここが……スヴァイン湖か」

カーヴァの声が霧に吸い込まれるように消える。
誰も返さなかった。誰にも、言葉はなかった。
ただ、それぞれの胸に、かつての記憶と、これからの予感が交錯していた。

リヴァは、湖の奥にある〈死者の神殿〉の方角を見つめる。
霧の向こうに、確かに、あの気配がある。
あの静かな眼差し。死の沈黙すらも包み込むような——彼女、ネイラの。
やがて、彼はゆっくりと足を踏み出した。
それは、過去と未来を繋ぐ、沈黙への第一歩だった。

かつて、深い霧の中でリヴァは彼女と対峙した。
名を問うことも、刃を交えることもなく、ただ静かに立ち尽くしていた。
骸禍の巫女王——ネイラ。
水底から立ちのぼるような静謐な気配は、今もなおリヴァの胸に深く沈んでいる。

そして今、再びその気配が彼を引き寄せる。
まるで、彼女が呼びかけたかのように。

「……やはり、来たな」

リヴァが小さく呟くと、彼の背後にふたつの影が現れた。
カーヴァとヴォルグ――かつて魔界を震わせた災禍の名を持つ者たち。
カーヴァは粗野な笑みを浮かべ、砂を踏みしめてリヴァの隣へ歩み寄る。

「骸禍の女王。噂以上だな……あの静けさ、死より重いぜ」

ヴォルグは何も言わず、ただ鋭い視線を遠くに送っていた。
その先に立つのは、漆黒の衣に身を包んだネイラ。
空気は張りつめ、風さえも凍りつくようだった。
彼女の周囲には言葉では届かない結界のような沈黙があった。
世界が止まり、ただ彼女の存在だけが、揺るがぬ中心となっていた。
リヴァは一歩、また一歩と近づく。

「ネイラ。……俺は、答えを聞きに来た」

ネイラの瞳が、ほんのわずかに揺れる。
だが、言葉はない。ただ、静かにそこに在るだけ。
沈黙が満ちる。
時の淀みに取り残されたかのように、四人は息を呑んで佇んでいた。

「……俺たちは、また争うために集ったのではない」

リヴァの声は低く、だが揺るぎなかった。

「奪い合うためでも、誰かを屈服させるためでもない。
お前の力が、いま必要なんだ。……魔界が、崩れようとしている」

その言葉に応えるように、ネイラの白い指先が微かに動く。
水底の亡者がざわめくような、冷たい気配が広がった。
カーヴァが肩をすくめ、苦笑する。

「口説くなら、もう少しマシな言葉を選べっての。相手は骸禍の巫女王だぞ」

だが、ヴォルグはただ静かに見守っていた。
その瞳には、何かを待つ者の確信が宿っていた。
やがて、ネイラがわずかに顔を上げる。
その目には、深い湖の底に宿るような、澄んだ光が灯っていた。

「……力を貸す理由があるとすれば」

低く、冷たく、しかし透き通るような声が、霧の中を震わせた。

「それは、世界の滅びに抗うためではない。——私自身の、選択だ」

リヴァは静かに頷いた。
(あの時と同じだ……言葉はない。だが、確かにあれは誓いだった)
これ以上の言葉は、不要だった。

……そのときだった。
死者の神殿に微かな違和感が混じり始めていた。
霧の底を撫でる風が、さきほどよりも重く、湿っている――まるで、遠くで目を覚ました “ 何か ” が、この世界に息を吹きかけたように。

リヴァは目を細め、周囲へと視線を巡らせた。
ネイラの放つ静謐とは異なる、鈍く澱んだ圧――
それは、確かに近づいていた。

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