焼け野原の空に、鈍く重たい雲が垂れ込めていた。
風に乗って流れてくるのは、煤けた灰と遠い雷鳴の気配――死の名残と、未だ醒めぬ戦の予感。
その谷は、《死者の峡谷》と呼ばれていた。
かつて千の剣と、万の命が散った地。
いまはもう、誰ひとり寄りつかぬ、沈黙の墓標。
ふたつの影が、その谷底をゆっくりと歩いていた。
ひとりは、額に王位継承印を宿し “ 歪刃イーデル ” を背負った男――リヴァ。
もうひとりは“ 風裂の弓 ” 《スラシアン》を携える男――カーヴァ。
その足取りには、迷いがなかった。
だが沈黙は、足元の灰よりも重く伸びていた。
「……リヴァ、本当にこの道でいいのか?」
やや遅れて歩くカーヴァが、前を行くリヴァに問いを投げた。
声は低く、だが確かな警戒を含んでいた。
この峡谷は、かつて魔王軍が撤退時に焼き払った廃地。
地図にも記されぬまま時に呑まれ、いまや獣の足音さえ途絶えて久しい。
「この先にある。《バル=ゾラン》の旧道が。“ あの男 ” がまだ何かを見ているなら、必ずここを通るはずだ。」
その声音には、確信にも似た焦熱が宿っていた。
「 “ あの男 ” … “ 焔の魔将 ” ヴォルグ、か。」
カーヴァの声には、かすかな苛立ちと興味が混ざっていた。
「一度だけ奴と剣を交えた。あれから灰燼軍を離れたと聞いたが……斧を納めた男は、まだ戦っているはずだ。」
リヴァの目が細められる。
その視線の先にあるのは、ただの荒野の空間。
だが彼の目には――かつての夜、燃え盛る焔の中で交わした一閃が、なお焼きついていた。
吹き荒れる業火の只中で交わった剣と斧。
灼けるような激突の果てに、ヴォルグは斧を下ろし、ただ一言だけを残して姿を消した。
『お前の目は、まだ燃えている。なら……俺の焔も、まだ終わっちゃいねぇってことだ。』
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谷の裂け目を抜けた、その瞬間だった。
地の底から呻くような地響きが這い上がり、風がざわめき、空が唸る。
太古の咆哮にも似たそれは、死の地に眠る残滓が再び目を覚ましたかのようだった。
「……来るぞ。」
リヴァが咄嗟に “ イーデル ” の柄へと手を伸ばす。
灰に包まれた視界の向こう――ゆらめく熱気の中から、ひとつの巨影が姿を現した。
それは、灼けた鎧を纏い、《煉獄斬》を背負った男――炎の魔将、ヴォルグだった。
その一歩ごとに、足元の灰が赤く揺らぎ、焦げた大地に熱が滲む。
威圧は健在。だが、それは咆哮ではなく沈黙の中に宿った、研ぎ澄まされた焔。
「……あんただと思ったよ。」
リヴァが低く呟いた。
その声に、ヴォルグが立ち止まる。
「久しいな… “ 焔を断った男 ” よ。今度は、何を斬りに来た。」
灰色の空の下。
二人の距離は、風一筋ぶん。
ヴォルグの口元がわずかに釣り上がる。
その緊張をはらんだ空気に、ふいに声が横から差し込まれた。
「あんたが “ 灰燼のヴォルグ ” か。噂じゃもっと恐ろしい化け物かと思ったが……意外と喋るんだな。」
ヴォルグがゆっくりと目を細め、カーヴァへ視線を向ける。
「……何者だ?」
「俺は、カーヴァ。」
その名に、ヴォルグの目が細くなる。
ほんの一瞬、炎の奥に記憶の影が灯った。
「 “ 反旗のカーヴァ ” か。名は聞いている。……風の男が、焔の谷に足を踏み入れるとはな。」
ヴォルグの表情に、ふっと影が射す。
それは、過去の因縁か、あるいは火に焼かれた記憶か。
「それで――二人して、俺に何の用だ?」
その場に、ふと静寂が訪れた。
だが、それは憎しみからくるものではなかった。
これから交わされる “ 何か ” の、確かなる前触れ。
口火を切ったのはリヴァだった。
「答えてくれ、ヴォルグ。……まだ、あの夜の続きにいるのか?」
焔と灰の狭間で、言葉が交差する。
「俺はもう “ 将 ” じゃない。“ 戦場 ” は終わった。だが “ 誓い ”は燃え尽きてねぇ。俺は……俺のやり方で、決着をつけに来た。」
ヴォルグの言葉に、カーヴァがわずかに笑った。だが、その目は真剣だった。
「誓い、ね……なら教えてくれ。あんたにとって “ 焔 ”とは、過去か? それとも――未来か?」
ヴォルグが一瞬だけ、目を伏せる。
だが次の瞬間、その双眸には再び燃えるような輝きが戻っていた。
「未来だ。“ 焼き尽くす ” ためじゃない。“ 照らす ”ための焔だ。」
その言葉に、リヴァもまた剣から手を離し、ひとつ深く息をついた。
「なら、同じだ。俺もカーヴァも、それを探しに来た。“ 過去に焼かれた者 ” たちが、それでもなお歩く理由をな。」
三人の視線が交わる。その中にあったのは、対峙ではない――共鳴だった。
風が吹く。
灰の中に、確かに小さな熱が生まれる。
この瞬間から始まるのは、かつて敵だった者たちによる、焔と風と光の新たな同盟――
“ 灰燼より、誓いを ” 。
物語は、再びその軌跡を描き出す。
