それから数日が過ぎた。
あの旅人の言葉を境に、カーヴァの胸には小さなざわめきが残っていた。
鍬を振るう日々は変わらずとも、指先はかすかに――かつて弓弦をなぞった感触を思い出していた。
……咎の子が、動いている。
その一言が、風のように彼の意識を吹き抜ける。
「……もう、俺には関係ねぇことだろうが」
自分に言い聞かせるような呟き。
だがその声に、決意の色はなかった。
むしろ、その響きは弱々しく、どこか未練すら感じさせた。
カーヴァは空を見上げてはため息をついた。
星々の瞬きの向こうに、過去の名残がちらつくようで、胸がざわついた。
ある日、谷間にある小さな集落に、焚き火が静かに揺れていた。
この場所に根を下ろした者たちは、それぞれに「過去」を持っている。
かつて戦に身を置いた者、故郷を追われた流民、名を持たぬ子どもたち――
傷ついた人々が、寄せ集めるように生き、ようやく「暮らし」と呼べるものを築き始めていた。
「なあ、カーヴァ……聞いたか? 東の交易路で、村が一つやられたってよ」
隣に座った中年の男が、声を潜めて言った。
その目には、不安と諦念が混ざっていた。
戦火はまだ、大地のどこかで燻っている。
いや、きっとまたこちらへ吹き込んでくる。
だがカーヴァは火を見つめたまま、何も答えなかった。
火の奥に、かつて燃え尽きた砦の残像が揺らめいた気がした。
すると――
「……カーヴァさん」
声をかけてきたのは、ひとりの少年だった。
痩せた腕で木箱に腰かけ、小さな手に、壊れた弓の枝で作った細工を握っていた。
それは、彼なりの “ 祈り ” だったのかもしれない。
「もし、また争いがこっちに来たら……そのとき、守ってくれる?」
その瞳は真っ直ぐで、けれどどこか大人びていた。
弱者が強者にすがるのではなく、命を賭ける者に、問いかけるような視線。
カーヴァはしばらく言葉を返さず、焚き火を見つめたまま沈黙した。
その沈黙は、少年にも炎にも届かぬ、深く重いものだった。
やがて――
「……弓ってのはな、一度放ったら戻らねぇ。 矢は、誰かを、何かを、貫くまで止まらねぇんだ。 だから俺は、もう使わねぇって決めた。……そう思ってた」
その声には笑みが混ざっていたが、影を落とすような苦さがあった。
それは後悔か、それとも――赦しを拒まれた者の哀しさか。
――その夜。
カーヴァはひとり、集落の倉庫の奥へと足を運んだ。
誰も近づかぬ場所。
埃に覆われた床のきしみが、過去の記憶を呼び起こす。
古びた木箱に手をかけ、そっと蓋を開ける。
中から現れたのは、風裂の弓《スラシアン》。
黒木の細身に、かつて精霊の導きで刻まれた風の紋が、微かに光を帯びていた。
それは “ 反旗のカーヴァ ” と恐れられた男の象徴。
だが今、それを見つめる瞳には、かつての猛りではなく――沈黙があった。
彼はゆっくりと弓を持ち上げ、指先で弦を撫でる。
その瞬間、倉庫の隙間風が鳴った。
まるで、眠っていたものが目を覚ましたかのように。
「……風よ。おれはまた、間違えるかもしれねぇぞ」
誰にともなくつぶやいたその言葉は、木箱の奥へと吸い込まれていった。
そして陽の昇らぬ翌朝――。
カーヴァは村の高台に立ち、東の空をじっと見つめていた。
靄がかかり、かすかに金の光が漏れている。
風が吹く。穏やかに、子どもたちの髪をなでるように――
けれどその風の底には、微かだが確かなざわめきがあった。
嵐の予兆。風は知っている。
遠くで、何かが崩れかけていることを。
「逃げるのも、生き方の一つだ。……でも、守るってのも、そうだよな」
言葉は誰に向けたものでもなく、自らの胸に向けたものだった。
遠く、風が渦を巻く気配がする。
誰かが、矢を――風を――必要としている。
矢羽はまだ背負っていない。
だが、彼の足は、すでに風の向かう先を選んでいた。
それが、決意の始まりだった。
