地を打つ鍬の音が、無音の空に溶けてゆく。
灰蒼の天蓋はたゆたうように揺れ、昼も夜もなく、光も影も境界を曖昧にしていた。
陽は昇らず、星も落ちない。
世界は常に「薄明」の中にある。
それでも、耕された畑には命が芽吹いていた。
ただ、それがどれだけ脆く、不確かな希望かを、この土地に生きる者は皆知っている。
畑の影は細く、どこまでも長く伸びていた――まるで、失われた時の残響のように。
カーヴァは額の汗をぬぐい、土に刺した鍬の柄に手をかけたまま、静かに息をついた。
地面から立ち上るわずかな熱が、ぬかるむ靴底に伝わる。
わずかに芽吹いた若葉が、畝の間で頼りなく揺れていた。
ここでは風すら、命を試すように鋭い。
かつて、何千という命を刈ってきたこの手で、いまは命を育てている――
その事実が、信じがたく思える日も、まだあった。
「……根を張るってのは、大変なもんだな」
ぽつりとこぼした独り言。
それは、自身に言い聞かせるようでもあり、土に語りかけるようでもあった。
この地に根を張るとは、ただ生きることではない。
魔の気配に耐え、記憶の断崖を渡り、誰にも頼らず、なお希望を忘れぬこと。
そのとき――
乾いた風の中に、わずかに異質な気配が混じった。
魔界において、「違和」が意味するのは、ほぼ例外なく脅威だ。
気づけば、泉のほとりに一つの影が立っていた。
黒い外套をまとい、風の流れに逆らうような静けさを纏った旅人。
この世界の風は、魂を削る。
だが男の足元には、一片の砂塵すら舞っていなかった。
その眼差しは、遠くではなく――もっと遠く。
時の彼方を見据えるような虚ろさを宿していた。
「悪ぃな。勝手に水を借りた」
低く掠れた声に、カーヴァの目が細まる。
鍛えた感覚が、無意識に警鐘を鳴らしていた。
この地に水は貴重だ。
だが、それ以上に――この男の存在が危うい。
「……風に逆らうような声だ。おまえ、何者だ」
旅人は答えなかった。
ただ、腰に差した剣の柄をわずかに見せるだけで、距離を保ったまま言葉を放つ。
「この大地に “ 反旗の風 ” と恐れられた男がいると聞いてな。……今は畑仕事に身を沈めていると?」
カーヴァはわずかに苦笑を浮かべた。
だがそれは、自嘲でも否定でもなかった。
「そういう言い方は好きじゃねぇな」
肩に鍬を担ぎ、旅人に背を向ける。
「俺は、落ち着いたんじゃねぇ。……選んだんだよ」
背を向けたままのその声音には、揺るぎない芯があった。
戦いの果てに見えたのは、栄光でも勝利でもない。
守るべきものがなかった世界に、小さな “ 明日 ” を刻む選択だった。
「ここには、戦場も命令もない。流れ矢もない。だがな、それでも……守りたいもんがある。風は止まってるが、それでいいんだ」
旅人は一拍、黙した。
その沈黙は、まるで古びた鐘の余韻のように、空気の奥に響いた。
やがて、その声が風に乗る。
「……だが “ 咎の子 ” が動いてる。魔界の底が軋み、風が目を覚ましつつある。 おまえの知らぬところで、風は渦になり始めてる」
その言葉に、カーヴァの背がわずかに強ばる。
風――それは、彼にとって決して無関係ではいられぬ存在。
心の奥底に沈めていた名が、自然と浮かび上がる。
「……リヴァのことか?」
旅人は答えなかった。
ただ、小さく笑みを浮かべると、まるで風に溶けるようにその姿をかき消した。
空気すら、それを記憶しようとはしなかった。
再び、静寂が戻った畑。
だがそれは、先ほどまでの静けさとは異なる。
見えない何かが、深く沈んでいる。
カーヴァはゆっくりと空を仰ぐ。
この魔界の空には、何も映らない。
それでも、彼の眼には何かが見えていた。
風はまだ穏やかだった。
だが、どこかで、あの戦場で感じた熱とは異なる、鋭さを孕んだ空気が流れていた。
皮膚ではなく、骨がそれを覚えている。
かつて弓を引き、矢を放った右手が、わずかに疼く。
リヴァに語った言葉が、胸の奥で静かに反響する。
「……誰かの旗のためじゃなく、誰かの “ 明日 ” のために」
風が変わりはじめていた。 それはまだ、決意という名の刃に至らぬ、さざ波のような “ 兆し ” 。
だがカーヴァは、確かに感じていた。 かつて戦場を駆け抜けた風とは、違う。 これは――導きの風。 新たな道を告げる、まだ見ぬ明日への風だった。
