ダークファンタジー「叛逆の導 - THE SIGIL REBELLION - 」小説サイト

まどろみの岸辺

風が、静かに草を撫でていた。
その風はどこか懐かしく、まるで遠い記憶の断片がそっと頬を撫でるようだった。
空はまだ眠りの中にあるかのように、朝とも夕ともつかぬ曖昧な光を湛え、世界をやさしく包み込んでいる。
時が止まりかけたような、しかし確かに流れている――そんな静謐な片隅に、今、世界は在った。

小高い丘の上。
ひとりの青年が、風と同じ色の沈黙の中に座っている。
白布を巻いた腕には、かすかな光の痕が浮かび、淡く、そして確かに脈動していた。
まるで、遠い海の底でひっそりと灯る命の光のように。

あの場所から戻る前、リヴァは袖を引き裂き、脈打つ痕を白布で覆った。
それがどんな意味を持つのか――
あるいは、何を赦され、何を失った証なのか――
まだ自分でも、はっきりとは分からないままだった。

「……夢じゃ、なかったんだな」

リヴァはそっと目を細め、手のひらを開いた。
その中心には、割れた欠片のような “ 流れ ” が宿っていた。
光と闇が渦を描くように溶け合い、今も微かに震えている。
それは形のない記憶であり、名もなき選択の残響だった。

「選ばなかった結末。消えた世界。可能性の墓場……」

呟いた声に応えるように、草のあいだから風がささやき通る。
風は問いかけず、ただ在り続ける。
返事はない。ただ、静けさだけが、この世界を満たしていた。
けれどそれは、かつての “ 死の風景 ” とは違っていた。
ここには、確かに “ 生 ” があった。
目には見えずとも、耳には届かずとも。

「……でも、ネイラの声が聞こえた。あれは―― “ 今 ” の音だった」

言葉を吐きながら、リヴァはゆっくりと立ち上がる。
足元には、かつて “ 彼 ” がいたはずの影――だがそれも、もうどこにも残っていなかった。
それでも不思議と、哀しみはなかった。
ただ、遠くへ還っていったものを見送ったあとのような、静かな余韻が残るばかりだった。
ふと、背後で草の音が揺れる。

「……戻ってこれたんだね」

懐かしい声。振り返ると、そこにネイラが立っていた。
どこか強がりながらも、まっすぐに彼を見つめる瞳は、いつもと変わらない温かさを宿している。
その存在は、まるで時の彼方から差し込んだ光のようだった。
いま確かに、リヴァを“この場所”へ繋ぎとめてくれている。

「おかえり」

リヴァは小さくうなずいた。

「ただいま」

二人の影が、風の中で重なっていく。
その瞬間、リヴァの胸の奥で “ 流れ ” が静かに鼓動を打った。
まるで、新たな旅路を指し示す羅針盤のように。
それは過去と未来をつなぐ、名もなき扉の鍵。

まだ、終わりではない。
まだ、答えは遠くにある。
けれど今は、それでもいいと思える何かが、確かにここにあった。
――けれど今は、この穏やかな時を抱きしめていたい。

リヴァはそっと目を閉じた。
風の匂いと、草の音と、世界の息吹が、深く深く、胸に沁みわたっていく。
それは、どんな魔法よりも確かな “ 現実 ” だった。
そして、まどろみの岸辺にて。
ひとつの物語は、静かに、そして新しく息を吹き返したのだった。

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