峡谷の入り口を越えた瞬間、空気が変わった。
それまで確かにあった風は消え、音さえも奪われたかのような沈黙が広がる。
肌を撫でるのは、重く、ぬめるような闇。
まるで何かがまとわりついて離れない。
足を踏み入れるその瞬間、五人は無意識のうちに息を呑んだ。
一歩、また一歩と進むたびに、周囲の風景は次第に現実味を失っていく。
岩壁は黒ずみ、空の色は鈍い鉛色に濁り、時間すらねじ曲げられていくようだった。
この地は、生きとし生けるものが入ってはならぬ場所――。
そんな原初的な警鐘が、骨の髄から鳴り響く。
それでも、五人の耳には確かに “ 声 ” が届き続けていた。
『お前は、誰のために剣を振るう?』
『裏切られた記憶を、まだ握っているのか?』
『お前の正義は、本当に正しかったのか?』
それは外からではなく、内側から響くような声だった。
心の奥に沈めた記憶を、誰かが指でなぞるように。
過去を暴き、迷いを引き出すような囁きが、途切れることなく続いていた。
「チッ……妙な幻覚でも見せるつもりかよ」
苛立たしげに吐き捨てたカーヴァの声も、ここでは異様に遠く響いた。
だが空間は応えるように、彼らの意識を深く沈めていく。
まるで、足元がゆっくりと溶けていくような感覚――。
ヴォルグの瞳が鋭く細められる。
「いや……ただの幻じゃねぇな。これは俺たちの中にある “ 何か ” を、逆撫でしてやがる」
「精神を試されているのかも…… “ 黒き門 ” に近づくために」
ネイラの声はかすかに震えていた。
だが、その目は怯えていなかった。
するとジュダスがふと立ち止まり、前を見据える。
「……こいつは罠じゃない。これは “ 選別 ” だ」
その声には、怒りではなく確信が宿っていた。
「誰かが見ている。俺たちが、ここに何を持ち込んできたのかを……リヴァ、お前も気づいてるだろう?」
問いかけに、リヴァは沈黙で答える。
否定しない表情の奥に、遠い記憶が揺れていた。
旅の始まりで出会った、漆黒の外套の男。
言葉ではなく、ただ静かに “ 導き ” を与えた存在。
そして、あの夜――名を与えられた瞬間を思い出す。
『リヴァ。その名は “ 流れ ” を意味する。お前は流れを変える者となる』
それは祝福であると同時に、誓いであり、鎖でもあった。
なぜ自分に名を与えたのか。なぜ、魔界四傑を導く道を選ばせたのか――
その答えは、いまだ闇の中にある。
「この道の先で……あの男が待っている気がする」
ぽつりと漏らしたリヴァの言葉に、全員が息を飲んだ、その瞬間。
峡谷の奥で、音が響いた。
それは崩れ落ちる岩の音ではない。
――“扉”が開く、重く鈍い音。
「来たな」
ヴォルグの口元に、静かな笑みが浮かぶ。
霧が割れ、姿を現したのは、黒曜石のような漆黒の門。
その表面は滑らかで、どこか冷たく、しかし確かな “ 力 ” を感じさせる存在だった。
“ 黒き門 ” ――古より伝承に語られながら、誰も見たことがなかった、魔界と異界を繋ぐ扉。
その前で、五人は無言のまま立ち尽くし息を呑んだ。
「この先が、俺たちの選んだ戦場か」
リヴァが、低く呟く。
そしてその言葉に応えるように、再び風が吹いた。
懐かしい香りが、風に乗って届く。
それは過去の記憶と、まだ見ぬ未来が交差する――静かなる運命の匂いだった。
